閑静な避暑地の、森の奥。鬱蒼とした獣道を進んだ、更にその先に見つけた屋敷。和洋折衷の立派な建物。
本当に此処に、彼らは居るのだろうか?不安と期待が入り混じって、手の平に汗が滲む。
様子を見る為に、柵に沿って庭に周った。
小奇麗にはしてあるが、花も何も無い其処は、庭と言うよりもポカンと開いた空き地のようだ。ただ、縁側の正面に当たる所に桜の古木が立っている。
自分が居るのは、青々と葉を茂らせた低木の影で、左手に屋敷、右手に桜を見ている。

要と幹彦を探し始めて以降、既に翌年の春が近づいていた。
途方に暮れた時期も長かったが、要の親戚筋から思ったよりも早く手がかりは見つかった。
何故こんなに必死になって探しているのだろう。そう疑問に思った事は一度では無いけれど。
まだ、迷っている。
此処に彼らが居たとして、自分はどうしたいのか。どうするべきなのか。何が出来るのか。
ずっと逃げるように後回しにしていたその思考に、何一つ答えの出ないまま今此処にいると言う事を、急速に実感し始めていた。

「・・・・・・・・・せんせい」

息が、止まった。
驚いたのは、突然人が現れた事にではない。
縁側から飛び降り、ひらひらと舞うように現れたその、艶姿。
人ならざるもののような妖しい香気を芬々とさせる存在に、視線が釘付けになったのだ。

亜麻色の髪は自分よりも少し長く、前髪を額の中心で分けて流している。女物の着物を纏い、この寒いのに裸足で土を踏みしめていた。
日の光に透けた白い肌、豊かな睫毛に縁取られた黒眼がちの瞳、ほっそりとした肢体。
衣装のせいもあるだろうが、最初、女と見紛った。だが。

―――日向要。

眼を逸らさずに、深く深くゆっくりと息を吐いた。
ずっと自分の中で恐れていた可能性が消えた事への、安堵。
生きていたのだ。
どれだけ変わっていようと、間違える筈が無い。
あの薔薇の木の下で、何度も会っているのだ。忘れようもない。

「要君」

そして、縁側に立った人影に再び戦慄する。
―――幹彦。
彼もまた、生きていた。
その事実は複雑な思いで、受け入れる。

 

幹彦は、桜の木にもたれかかった要に吸い寄せられるように庭に下りた。
「先生・・・・・」
あえかな声を漏らし、その首を両手で抱き寄せて、要は口付けをねだる。
すぐに与えられた唇を貪っている間中、柔らかな指先は悪戯に幹彦のうなじや首筋をくすぐっていた。
「お上手ですよ」
唇を離し、吐息が触れ合うような近さで、二人はくすくすと笑い合う。
「でも少し我慢なさい、お客様のようだから。・・・・・そんな所に隠れて居ないで、出てきたらどうですか?」
要の後頭部を撫でながら、切れ長の瞳だけが動いた。
いつから気付いていたのか、幹彦は低木を透かすように正確にこちらを見ていた。

「・・・・・・」

白を切れるような状況でもない。
観念して、足を踏み出した。腰辺りの高さの柵に手をかけて、ひらりと飛び越す。
玄関に周ろうかとも考えたが、一々そんな事を気にするような仲でも無かったと思う。多分。
その間も睦みあっていた幹彦たちの数歩手前で立ち止まり、ひたと要を見つめる。

「久しぶりだね、要君。突然いなくなったから、皆君を心配しているよ」
「っ・・・・・・」

始めは只、単純に不思議に思っただけだった。

出来る限り、優しく話しかけたつもりだった。
なのに要は何故だか、全く表情の無い顔で逃げるように幹彦の背に隠れてしまう。
子供のような仕草で腕にしがみつく彼に何ら戸惑うことなく、幹彦は彼の好きにさせている。
何だ、これは?
言い知れない、違和感。理解できない恐怖が駆け巡り、一瞬、今見たものの全てに吐き気がした。

要はじっと抱月の顔を見ていたが、すぐにそれにも飽きて、くるりと身をひるがえして家の中へ消えてしまった。
「あっ」
「放っておきなさい。君に邪魔されて、機嫌が悪いようだから」
「・・・・・・」
「それよりレイフ、わざわざこんな辺境の地までご足労頂いたのですから、上がっていって下さい。何もありませんが、お茶くらいお出ししますよ。」

返事も聞かず、幹彦もまた、縁側から家の中へ入っていく。
蛇のように潜む、罠の息遣いを感じたが、結局黙って後を追う事しかできなかった。

 

 

通された和室は、客間のようだった。
自分の家の寝室と同じような造りだが、真ん中に置かれた小さな丸い膳以外、家具がほとんど無いので不思議と広く感じる。
幹彦は一度席を立ったが、程なくして湯飲みを二つ盆に載せて戻ってきた。

「どうぞ。それにしても、よくここが分かりましたね。訪ねて来たのは君が初めてですよ。」
「思ったよりも元気そうだね、幹彦」
「おかげさまでね」

世間話をするつもりなど、お互いに微塵も無いだろうに、幹彦はとぼけているのか煙に撒こうとしているのか、当たり障りの無い事柄ばかり尋ねて一向に真意を見せない。
会話が途切れたところで、手付かずだった湯飲みを取り、喉を潤す。
そして改めて口を開いた。

「僕はね、幹彦。もしも、・・・もしも君たちが本当に幸せに暮らしているのなら、黙ってこの場を去ろうと思っていたんだ」
・・・・・そんな可能性があると思っていたのかは、自分でも疑問だが。
言葉を選びながら、先を続ける。
女物の着物を着て、まるで知らない人間のように自分を避けた要を、思い出す。
「さっきの様子じゃ・・・・要君は、正気じゃない。」
「・・・・・・」
「今ならまだ間に合うかもしれない。なあ幹彦、もう止めよう。お前の狂った人生に、彼を巻き込むのは終わりにしよう。」
情に訴えてどうにかなる人間ではない事を知っていて、尚言い募った。
要への彼の執着が、愛と呼べるものなのかは分からないが、物でも金でも動かぬこの男をここまで追い詰めたのは、情以外の何であろう。
じっとその眼を見据えれば、幹彦は自分がそんな事を言われるなど、思いもよらなかったというように驚いた顔をしてみせる。
だが開いた瞳はすぐに眇められた。
「・・・・・レイフ。どうして君は、無駄だと分かっているくせに、私にそんな事を言うのでしょうね」
一呼吸置いて返ってきた、地を這うような投げやりな声に、空気が緊張を孕んだ。
月村幹彦という人間が、例え僅かでも、苛立ちというものを態度に滲ませたのを見たのは初めてだった。
「要君を愛しているなら、彼をお前の傍に置くべきじゃない。お前のような人間に誰かを幸せにすることなどできやしない。」
きっぱりと言い切る。どうせ幹彦は、何を言われても傷つかない。傷つく事のできない人間なのだ。
彼が、この程度で苦しむ事のできる人間だったならば、あんな風に要を狂わせる前に止められた筈だ。
「それで?君の傍ならば彼は幸せになれるのですか?ああ、それとも君が私の傍に居てくれるのかな?」
幹彦がくっくっと喉を鳴らして笑う。滑稽でならない話をしてみせた人のように。
・・・・・・どちらでも良かった。
この状態から脱却するのに、そうする以外に方法などあるものか?
どちらを選んだとしても、自分は真剣なのだ。幹彦と要。両方とも、自分は捨てられないのだ。
なのにどうして、幹彦の口から発せられただけで、それが滑稽で馬鹿馬鹿しくて仕方の無い事のように聞こえるのだろう。

喉が、ひりつくように渇いて仕方が無い。湯飲みを、ぐいとあおった。
幹彦は何も言わずに笑っている。

それから、お互いの沈黙は暫く続いた。
元より、幹彦とまともな会話が成立する事など期待してはいなかったのだ。
要を連れて、此処を出る。幹彦の魔の手の届かぬ場所に、匿う。
全く現実味の無い計画だが、焦りだけが募っていた。
要と出会って、幹彦は良くなったのだと思った。
だがもう駄目だ。壊れてしまった。
引き離したところで、元通りにはならないかもしれないけれど。

 

肉体の異変は間も無くして訪れた。

うなじを伝って汗の雫が背中を滑り落ちる間隔に身震いした時、自分の身体が焼けるように熱くなっている事を知った。
「お前・・・何を・・・飲ませた、んだ・・・・・ぁ」
自分の吐く息にすら、ぞっとするような色が滲んだ。
始めはゆっくりと間隔を空けて、そして段々止め処なく込み上げてくるようになった鋭い疼きに、身を捩る。心臓が怖い程にドクドクと脈打っている。
座っているのも酷く辛くなり、正座のまま半分に身を折って、それから横倒れになった
ごろり、と落とした湯のみが畳に転る。中身はほとんど残っていなかった。

「媚薬を少し多めに。健康を害す量ではないので、ご安心を」
「何故・・・・」
「すぐにわかりますよ・・・・・・、要。」

気が付けば、幹彦の背後には要が立っていた。
正絹から覗く、裸足の爪先が眼に入る。
上から見下ろしてくる視線を、只、只、全身に感じていた。

幹彦が喋る声も、しゅるしゅるという衣擦れの音も、ぱさりと落とされた着物も、どこか遠い世界の出来事のように思えた。
何かで、両腕をきつく拘束される。肌に食い込む感触すら、快感に変換されて堪らない。

「・・・・・・・・・・」

「そう・・・・この男を犯しなさい。君の好きなように、好きなやり方で」

くすくすと笑う声が、頭の中に残響を残した。

 

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