要は着物を布団代わりに身体にかけて、幹彦の膝枕で眠りについた。
疲労の色は濃いが、満ち足りた寝顔。純粋な存在である事は、ある意味疑いようが無い。
彼には羞恥も無く、恐怖も無く、ふしだらで醜悪な淫蕩に耽る事に何の罪悪感も無く、慈悲も無かった。
幹彦に言われるがままに、自分を嬲り者にした。
それは魔物のように残酷に、誘惑的で、快楽を伴う責め苦だった。

―――本当に、取り返しのつかない程、狂ってしまったのだ。
自分の知っている要は、死んだのだ。
頭の片隅で、ようやく理解した。
頭の何処かが焼き切れてしまった。そんな感じがする。

仰向けに転がったまま、両手で顔を覆う。まだ、こめかみに響く動悸は止まらないし、息も整わない。
要に脱がされ、放り捨てられた着物をもう一度着はしたけれど、酷く情けない気分だった。
身体中を埋め尽くすのは、空虚感。穴をあけたら、そこから空気が抜けて萎んでいってしまいそうに、指の先まで虚しさに支配されている。

 

「幹彦。お前・・・・写真を撮っただろう」
「・・・・ええ、念の為に。」
「別に、お前は僕が何を言っても信じないだろうから、勝手にそれで満足してれば良いさ。」
良い気分になる物でもなかったので、 投げやりに言い放つ。
瞼の裏。眼を焼くような、白い閃光を思い出す。
今もどこかにあるのだ。否定のしようもない、己の醜悪さの証拠が。

指と指の間から、幹彦の顔を窺い見る。
自分一人高みに腰を下ろして、髪の毛一筋乱さなかった男。
写真を撮り終われば、脅迫にはそれで良い筈なのに、彼は最後まで事の傍観者として手出ししなかった。
飼い犬の種付けでも見ているかのように。

「お前は・・・どうしてまだ、こんなことをする?本当はもう、必要ないだろう?花喰ヒ鳥のような真似をすることに、何の意味がある?どうして要君を・・・・自分の恋人と、他人を、抱き合わせるんだ・・・・」
最後は血を吐くような思いで言葉を紡いでいた。
分かりたいと思った訳でも何でも無い。けれど訊かずには居られなかった。
訊いて終わりにしたかった。何もかも。

「何故・・・?さて、何故でしたかね。以前は何か目的があったような気もしますが、今となってはどうでも良い事ですよ。」
幹彦は口元に軽く握った手を当て、真剣に何かを思い出すように目を伏せたが、待ってみても答えは出なかった。
「でも、そうですね。理由があるとすれば、他人と抱き合う彼を見ていると、より強く実感できるからかもしれません。―――彼を、愛していると」

狂人の論理だ、と思った。
愛する人を、只愛するというだけの事もできない。彼は嫉妬さえ、履き違えている。

「要君が・・・可哀想じゃないか・・・・」
ぎゅっと眼を瞑る。泣きたい気分だったが、涙は欠片も湧いてこない。
くすり、と鼻で笑われる気配がした。何か、酷く皮肉な意味を込めて。
その瞬間、かっと頭に血が上った。
思わず、勢いよく起き上がって幹彦の襟首を掴む。身体を持ち上げられて仰け反った幹彦に驚いて、要が「んっ・・・」と声を漏らした。
後、数秒、間があったなら、殴りかかっていたかもしれない。
「ですが、悪くなかったでしょう?彼の身体は。」
目の前が、真っ暗になった。怒りなど、忘れた。
爪が食い込み、痛い程に握り締めていた手を、ゆっくりと開くと、幹彦の身体がすとんと落ちた。
・・・・・もう、何を言う気力も残っていなかった。
何の躊躇いもなく、事実を事実として突きつける。今の自分にとって、最も残酷な言葉がそこに紡がれてしまった。

どうして、人の心の、最も触れられたくないと思っている脆い部分を、握り潰すような真似を、苦も無くできるのだろう。

あれだけ偉そうに幹彦を責め、要を狂人だと諦めておきながら、お前は何だ?
最中に、腕の拘束を解かれても、逃げなかったじゃないか。止めもしなかったじゃないか。
倫理感も理性も裸足で逃げて行ってしまった後に残ったのは、要を救い出すなどという高尚な正義感ではなく、地獄のような交合に耽り溺れていく肉欲だった事を、忘れたのか?

「ふっ・・・・ふふふ。・・・・ははははっ・・・・・あはははははははっ・・・・・」

心底、笑いが止まらない。滑稽で仕方がなかった。
異常ではない人間がこの場に居ない事が、唯一の救いだった。

笑い疲れてぜいぜいと息をする頃には、要が半身を起して、幼い仕草で眼を擦っていた。
「要君、お疲れ様でした。いらっしゃい、清めてあげましょう。」
「・・・・・」
いつの間に用意していたのか、幹彦は濡れた手ぬぐいを載せた盆を引き寄せる。だが要は不満げに眉を寄せ、違うと言うように左右に頭を振った。
「ああ、これは失礼。ご褒美が先でしたね」
柔らかに微笑んだ幹彦が、膝に乗せるよう要の腰を抱き寄せると、するりとその肩から着物が滑り落ちる。
白すぎる背中には、血のように紅い情交の痕が、無数に散っていた。
「ん・・・・」
要は陶然と微笑む。それで正解だと言うように。

 

退廃と耽美を塗り込めた仮面のような顔をした美丈夫に、赤子のような無垢の瞳をした青年が、それこそ生まれたままの姿で、膝の上に乗り、横抱きにされ、見るからに甘そうな紅い舌を吸われている。
―――美しかった。悔しい程に。
おぞましくも、それは額縁に嵌められた一枚の絵画の如き、光景だった。
魅入られる程に。

何を、信じれば良いのだろう。
愛とは斯くも罪深く、人を惑わせるものなのだろうか。
要さえ現れなければ、幹彦が犯さずに済んだ罪は無いだろうか。
幹彦さえ要に興味を持たなければ、要が受けずに済んだ罰は無いだろうか。

どうせ助けられないのなら、最初から何もしなければ良かったのだ。
幹彦も、要も、自分の手など求めてはいなかったのだから。
『要君が可哀想じゃないか』
そう言った時、何故幹彦が笑ったのか、本当は何となく分かっていた。

お前が可哀想だと言っているのは、お前自身の事だろう。
そう言われた気がした。そしてそれは、認めたくないと思えば思う程、的を得ている事を痛感した。

その手を求めていたのは、自分なのだ。
だからこそ、此処にいる。捜し求めて、誰に止められても、見つかるまで止められなかった。
どうして、幹彦が選んだのも、要が選んだのも、自分ではないのだろう。
どうして自分では駄目なのだろう。分からない。
報われず、救われず、諦観して、悲観して、それでもこの世の何処かに幹彦という悪魔が生きていることを思うと胸が痛くなるのは、何故だろう。
何故、人を殺す前に。狂う前に。自分自身を殺す前に。自分に助けを求めてくれないのか。
明日を生きて、明後日を生きて、死ぬまでの日々を要と二人で只生きるという人生すら、自分に分け与えてくれないのだろうか。

 

気が付けば、自分の乗って来た車の前に立っていた。
無我夢中だったのか、全身を検分すれば、髪に葉や細かな枝が引っかかっているし、足には切り株に引っ掛けたような切り傷までできていた。
なのに、いつ、どうやってここまで戻って来たのかも覚えていない。

唐突に、要の心配をしていた四人の学生の顔が頭に浮かぶ。
―――もう、戻る事はできない。
自分と抱き合い、情を交わす最中でさえ、幹彦だけを見て、幹彦を呼び続けた要の姿が、一層生々しく蘇って彼らの顔を消す。
―――進む事もできない。

 

絶望の底というのは、味わったものだけに分かるのだが、実に甘美なものなのだ。
落ちるところまで堕ちてしまった。だからもう、それ以上落ちる場所は無い。
立ち上がる気力も無いほどに、打ちのめされてしまった。奪いつくされてしまった。
だからもう、これ以上奪われるモノは何も無い。

 

薄暗くなった辺りの景色は、来る時と違って寂寥感に満ち満ちていた。
鬱蒼とした木々が、背後から襲い来るような錯覚が、ザワザワと神経を騒がせる。

―――寂しい。
死にそうなくらいに胸が苦しく。耐え切れない程に、どうしようもなく、寂しい。
眼に映る景色も、聞こえてくる音も、匂いも、空気も、感触も、一切の感覚を揺り動かさない。
己の内に広がる、絶対的な、凍った静寂。

非現実感。精神の浮遊感。魂の剥離感。・・・・・・・・肉体と、五感と、世界の、解離感。
ばらばらに千切れて、全てが遠過ぎる。

生まれて初めて、あの頃の幹彦の気持ちが分かった気がした。

 

<了> 

>>弐頁目

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