カウンターに座り、いつもの、とだけ言うと、程無くしてウィスキイの水割りが出される。
置物のように無口なバーテンは、それからまた黙々とグラス磨きに勤しみだす。
大通りから一本外れただけだが、喧騒からは程遠い、ひっそりとした路地裏に、看板も掲げずに営業している地下バー。
会員制ではないが、まず常連客しか来ないような隠れ家的な店は、光伸も密かに気に入っていた。
ソファ席では品の良い紳士らが数人、人形のように静かに酒を飲んでいる。
薄暗い店内の唯一の光源は、処々に置かれたアールデコ調の薔薇のランプ。壁には大小形も様々な鏡が無数に掛けられ、一つ一つにアンティークゴールドの額と天使のイミテーションが飾られている。合わせ鏡の中は、それだけで奇妙な歪みを醸していた。
居心地は悪くない。此処はどちらかと言えば現実よりも夢の世界に近い。
多分この場所に、月村幹彦のような男はこの上も無く似合うだろう。
何の感慨も無く、光伸はそう思った。

重厚なドアが音も無く開くのを、僅かな空気の動きで感じる。造りの良いドアは、そのまま静かに閉まった。
続いて聞こえてきた軽薄そうな声からして、入ってきたのは珍しく、自分と同じくらいの若い男らしい。
初老の支配人が挨拶をしに行ったのを見ると、上客なのかもしれない。
鹿乃浦と呼ばれた男は、光伸の隣へ、一席空けただけで座った。
八席あるうちの一番端に座っている自分以外、他にカウンターに客はいないというのに。
彼が店で一番高い酒を、と支配人に告げると、再び店に静寂が戻った。

ふと、視線を感じた。先ほどの若い男、だ。
バーテンに最近の情勢を聞きながらなど、彼は実にさりげない調子でこちらを見ている。
だから、気になった。
人の注目を浴びる事に、光伸は幼い頃から慣れていた。
それ故に、気付いた。今、自分に注がれている視線が、嫉妬でも、欲望でも、下衆な詮索でもなく。もっと自分の内面を、鑑賞するような、観察するような類のものであることに。
もちろん、初対面の人間にそのような目で見られる云われは無く、不快さを我慢してやる義理も無い。
ギロリと睨め付けると、男はもう目を逸らさなかった。
そればかりか、幾分目を細めて顔を近付け、「俺、あんたの顔を見た事があるよ」と自分にしか聞こえないような密やかな声で囁いた。
「・・・・・大方新聞ででも見たんだろう」
下らない。
光伸は落胆していた。男からは、何か非日常の匂いがしそうだと期待したからだ。
だが、発せられたのは余りにも聞き飽きた、光伸のおこぼれにあやかろうとする有象無象の常套句だった。
上から下まで検めさせてもらえば、この男のいかにも成金らしい洒落た洋装も、遊び慣れた軽い雰囲気も、冴えない顔も見るからにそんな連中らしい。
「いや・・・確かに俺は、あんたが金子子爵の子息だとはしっているが、顔を知ったのはそれよりも前だよ。・・・・ああ、確か・・・・兄貴が見せてくれた写真だったかな」
言葉は終わりに近づく程独り言めいていて、何かを思い出しながら自嘲するような響きがあった。

当然の如く、会話はそれ以上続かなかった。

光伸が父の知人に呼ばれ、席まで挨拶をしに行っている間に、男は帰ったようだった。
「・・・・・え?」
「ですから先ほど、金子様の分もご一緒に、と鹿乃浦様が支払われましたので、これ以上頂く訳には参りません。」
支配人に慇懃に頭を下げられ、光伸は渋々札入れを懐に仕舞った。
・・・・訳がわからない。
「あの、鹿乃浦という男はよく此処へ来るのか?」
「いいえ、毎日いらっしゃったかと思えば、半年もお顔を見なかったりと、様々で御座います。」
「・・・そうか」
「それから・・・これはあの方のお忘れ物のようなのですが、此方でお預かりした方が宜しいでしょうか」
支配人は手に持っていた物を光伸に見せると、僅かに困惑したような素振りを見せた。
「いや、俺が預かろう。今日の礼もせぬといかんしな。」
「ありがとう御座います」
もう一度深く腰を折った支配人にチップを握らせ、光伸は店を出た。

結局、鹿乃浦誠司という男を見たのは、後にも先にもそれ一度きりだった。
取り立てて特徴も無い。顔形など、真っ先に忘れた。
けれど、彼が光伸の心に落としていった影は、あたかも合わせ鏡の中に広がる回廊のように、いつまでも出口を持たずに残り続けた。

 

 

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