優しい悪魔




数日後、要の体調はすっかり良くなっていた。
だが伏せっていた間に甘え癖は益々板に付いたものになり、口移しで与えなければ食事も水も受け付けなくなった。
今の彼は、まるで鳥の雛のようだ。
自由に飛べる翼も、美しい声も捨てて、只自分だけを見つめ、信じ、呼び続ける。

要の精神は今、三歳児程度の理解力しか示さない。
彼は現実を認識することを放棄して自分の心を守った。
もう、何者も彼を苦しめる事はできない。
例え今、何人に犯されたとしても、要自身は自分に何が起こっているのか理解しないだろう。
悲しみも、苦しみも無い。その為に多少多くの犠牲を払いはしたようだが。
結果、要が幸せそうに笑っているのだから、これで良いのだ。

過去や人間関係という些末な事象から解き放たれた彼の五感はいよいよ研ぎ澄まされ、その瞳は磨き上げた鏡のように純粋に全てを映し込む。
何の先入観も持たず、何からも干渉を受けず、彼はそこに在るものをただ見つめ、そして私に伝えてくれる。
世界は美しくて醜い。
何ら生産することもない暮らしで、死というものにのみ私達は魅かれ、私達なりに生を全うしている。

要は、私の胸に耳を当てて眠るのを好む。
私が近くにいない時などはよく懐中時計を耳に押し付け、飽きることなく聴き入っている。
何故なのかを訊いたことがあるが、当然意味を成す明確な答えは返ってこなかった。
しかし、 理由は何となくだが私にも分かっている。
毎日死に向かって一秒毎に刻まれる音を聴くのが、彼のお気に入りなのだ。

 

 

縁側に立つと、要が桜の木の前に蹲っていた。
「要君、何をしているのですか?」

「・・・・・」
さく、さく、と土を掘る音が聞こえる。
―――何かを埋めている。
要は手を止めずに、振り向きもしない。
彼は太い木の枝で土を掘りながら、泣いていた。

「・・・・・・・要君。こんな所に居たら、身体が冷えますよ。」

傍らには小さな黒猫の身体があった。
突っ張った四肢を投げ出し、爪も出し放したまま動かない。 死んでいる。
その毛並みに傷は見当たらない。だから、犬や狼に噛まれて死んだのではないだろう。
病死しているのを見つたのかもしれない。
―――だが。
口から舌が飛び出ていた。
まるで生きている間に強い力で首を絞められたように。

『僕は結構、動物に好かれる方なんですよ』
昔、要が確かそう言っていた事があった。
猫のような少年を手懐けながら。

小さな黒猫には見覚えがあった。
死後誰かの手によって閉じられたのであろう瞳は、月光を閉じ込めたような金色であるに違いない。

―――あの日



薔薇

 




散らかった部屋の片付けが一段落ついて要の様子を見に行くと丁度彼は眠りから覚めたところだったようで、猫のように身体を丸めてぼんやりと親指をしゃぶっていた。
傍らに膝を付き汗に濡れた前髪をかきあげて額に触れてやると、ひんやりとしていた。
「よく眠っていましたね。熱も下がったようだ。はちみつ湯を作ったんです、喉に良いからお飲みなさい」
「・・・・先生?」
くいっと袖を引かれてそちらを見ると、シャツが裂けて血が滲んでいた。
気付かなかったが、どうやらあの黒猫にやられたものらしい。
要が恐る恐るそれに触れようとしたのですっと腕を引く。
「要君、手が汚れるから止めなさい」
「せんせ、・・・?」
「大丈夫ですよ、大した傷ではありませんから。」
要は半身を起して、ぶるぶると震えながら自分に縋り付いてくる。
染み込んだ血液は白いシャツの色を真っ赤に変えていた。
彼はその色に本能的に怯えているらしい。
「血が沢山出ると、人は死んでしまいますが・・・・。これくらい大丈夫ですよ。でも、猫にやられたので消毒をしないと。菌に感染すると厄介ですからね」
「先生・・・・ごめんなさい」
「どうして要君が誤るのですか、君は何も悪くないでしょう」
要は悲しそうに目を伏せる。心なしか蒼ざめて、まだ肩が震えていた。
彼の気持ちは手に取るように分かった。
もしも怪我をしたのが要ならば、きっと自分は同じ気持ちになっただろうから。
だがどうして謝るのだろう。

「ごめんなさい・・・」

 

薔薇

 


―――ようやく要が何故あんな顔をして自分に謝ったのか、合点がいった。
あの黒猫は屋根裏から忍び込んだのでもなく、要があの部屋に隠して飼おうとしたのだ。 後先など考えない無邪気さで。
自分が気付かなかったのだからそれも一日ニ日なものだろうが、すぐに要が伏せってしまい餌を貰えず、閉じ込められた猫は混乱したのだろう。

今の要の思考は、行動する前に記憶の繋がりを付けるという事ができない。
だからその無垢さも残酷さも一人の人間の器に相反する事無く共存している。
彼は自分が何故泣いているのか、自分自身にすら理解できない。恐らく、何故猫を縊り殺したのかも、何故猫が死んでいるのかも、何故自分がそれを埋めようとしているのかも。
だが、私には分かる。
この世で只一人、要に妄執を寄せる自分だけは、要の全てを知っているから。

要がただ優しさを持つだけで生きて居られた時の、密やかに咲く花のようだった笑顔を思い出す。
優しい子だった。だが強い人だった。
害になる虫を殺してでも、花を生かすと言いはしても
己の手で殺めて尚、彼は泣くのだ。 それが、要が要であるが所以なのだから。
要は自分とは違う。
小動物の死骸を桜の木の下に埋める。
それはかつての自分の所業ではあったけれど、 同じ事をしているのにこんなにも違う。
「っ・・・・・ぅっ」
嗚咽を漏らす背に、何と声をかけるべきかわからない。

戸惑う、なんて感情とは無縁だった。
判断と決断と行動は常に同時にあり、 在るものを在るがままに受け入れ、外の世界はどこか遠いところにあった。

 

 

死骸を埋め終えた要は、ずっと無言で背後に立っていた自分を振り返って微笑んだ。
彼が瞳を細めた拍子に、目尻からつっと雫が流れる。

「しにたい」

世界は美しく、そして醜く、歪んでいるのに、それを真っ直ぐに見つめてしまっていた。
死は死であり、その先に待つのが天国でも地獄でもなく、来世でも冥界でもなく無であることを。

「先生・・・・、死にたい」
「駄目ですよ要。今はまだその時ではありません。」
きっぱりと言い切れば、何故そんな事を言うのかわからないと言うように縋りついた足に爪を立てられた。
「家に、入りましょう。手の泥を落としてあげます。それに疲れただろうから、少し横になった方が良い」
頑是無い子供のように首を振っていやいやをする要を抱き上げて、痩せた身体の背と膝裏を支えて歩き出す。
彼は暫く私の背を叩いたり髪を引っ張ったりして暴れてから、落ちないように大人しく両手で首を抱き締めてきた。

「殺して・・。先生、殺して」
「ええ、殺してあげます。私が逝く時には、君も連れて行くと決めたのだから。そう焦らなくても、良いんですよ。私は嘘を吐かないし、そしてもう君に隠し事をする事もしない。」

「ふふっ・・・・」
ぎゅうっと私の胸に耳を押し付けて、要は甘やかな笑いを漏らした。

私の胸から溢れ出る、死に向かっていく音が止まる時、願いが叶う事を理解したかのように。

<了> 


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