ルナティック

 

 

月の光は人の心を狂わせるのだと幹彦は言った。
恐怖、不安、憤怒、悲哀
月光は人の負の感情を増幅させる装置のようなものなのだと、微笑みながら西洋に伝えられる月と関係する怪物の話をいくつも教えてくれた。
おとぎ話のようなそれを夢中になって聞いていたら、幹彦の瞳は更に三日月形に細められた。

その時思ったのだ、こんなに優しく光を注ぎながら人の心を狂わせる
それはまるで幹彦の事だと。

秋の終わりの冷たい空気が、行為によって火照った肌を撫でる。
透き間を埋めるように幹彦に身を寄せると、温かい手の平がしっかりと抱き寄せてくれた。
「先生、どうか僕を置いて何処かへ行ってしまわないで下さいね」
幹彦の腕を枕にして、柔らかく覗き込んでくる切れ長の瞳を見上げる。
先ほどまでの激しく情熱的で官能を呼び覚ます手付きとはまるで違う、愛しむような仕種で髪を撫ぜられる。

「要君が望むならば、そうしましょう」
そう言われて胸の奥がちくりと痛んだ。
頬に触れる指先は、自分が望んだから与えられるものなのだ。
いくら愛情を注いでも、この人にはまだ足りない。
物理的な隔たりを埋め尽くしても、まだ届かないのだ。
だってこの手を幹彦から掴んでくれないのなら、自信を失くしてしまう。
終わりを恐れない幹彦と共に居る事には、常に綱渡りをしているような危うさが離れない。

「絶対にですよ」
だってこの問いかけに彼が応えないのが、答え。
花喰ヒ鳥として自分を犯し、裏切った。目の前で自分と他人を抱き合わせた。何人も殺した。
これ以上に一体何を隠す事があるのだろう。もしあるとするなら、それはどんな恐ろしいことなのか。自分は耐えられるのか。


雲間に隠れて、月明かりが翳った。
夜目にも誘惑的な紅い唇が弧を描く。
髪を下ろして眼鏡を取れば、まるで年齢を感じさせない風貌になる。
鋭い瞳を閉じれば、幼いとさえ思える程に。

幹彦は何でも知っている。
学問的な質問をして彼が言いよどんだところを、見た事が無い。
月は自ら発光している訳では無いのだと、教えてくれたのは彼だ。
あれは太陽の光を受けて輝いているのだと。
だから月の裏側は、真っ暗なのだと。

多くの人間と肌を合わせた。利用もした。
それもこれも、結局始まりは幹彦に見離されないようにする為だった。
彼の為に自分は変わった。
それが狂った事だとしても構わない。
失ったモノは些細な事で、得たモノは何ものにも代えられぬから。
だから自分は与え続ける。幹彦にも、愛しい者達にも。
彼らの背後に広がる闇など忘れる程に、目の前の自分だけを見ていれば良いのだと
そう信じさせ続ける事が、自分にできる唯一の事だから。


「先生。先生が母さんみたいに僕を独りで置き去りにしたり、父さんみたいに僕を裏切ったりしたら、絶対に許しませんから」
「その時は、どんなお仕置きが待っているのでしょうか」
「貴方を、殺してやります」

それは口を付いて出た言葉だったが、真実だった。
幹彦が自分を見放すような事があれば、きっと自分は彼を殺す。
もう何処にも引き返せないのだ。どうせ、生きている限り死に向かって進んでいくのは止められない。
―――殺して、それから。
ふいに嗚咽が漏れそうになって、鼻の奥がつんと痛んだ。急に恐ろしくなって、剥き出しの腕に縋りつく。
「でもきっと、先生が居ない世界なんて1秒でも耐えられない」
顔を上げていられなくなって、ぎゅうっと音がなりそうな程に爪を立てると、息が止まりそうな程の強さで胸に抱きこまれた。

一番近くにいる筈なのに、絶望的な程に寂しいのはどうしてだろう。
どうして自分たちは別々の存在として、この世に生まれてしまったのだろう。
何度交わっても、溶け合いそうなくらい深く重なっても、終わってしまえば離れなければならないなんて
当たり前に生きていられた頃が信じられない。

こんなに激しい感情が自分の中にある事を、知らなかった。
幼い自分に唯一愛情を向けてくれた母は、愛というものに絶望して死んだ。
彼女が弱かったからではない。只、『愛する人を間違えた』のだと。
そして自分には彼女の血が色濃く流れている事を、鏡を見る度にまざまざと感じる。

「泣かないで下さい。君に泣かれたら、私はどうして良いかわからなくなってしまう」
声音は静かだけれど、珍しく困惑を滲ませた様子に少し機嫌が上昇する。
この残酷な気持ちは何なのだろう。
絶望してもまだ足りない程深い闇の存在を、幹彦は知っていたのだろうか。

「寂しいんです、先生。先生に隠し事があったって構いやしません、でも忘れないで下さい。僕を裏切ったら、僕は貴方を殺します」
幹彦と離れるのは、嫌だ。
例え矛盾しているとしても、決して嘘では無いのだ。

「・・・・・・私も、時々君を殺してやりたくなる」
そっと、搾り出すように、熱い吐息と共に耳に注がれる声。
それはどんな愛の言葉よりも激しい告白に聞こえた。

 

 

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